栗原信義氏のこの発言が、示唆的だった。

Pierre Riviere
フーコーの「狂気」もフロイトの「無意識」も元ネタとして参照されうるのは、ヘーゲルの「精神哲学」ですよw (岩波文庫に入ってるやつ)
3週間

 フーコーが、ディドロ「ラモーの甥」に言及していた。

フーコー「狂気と社会」『狂気・言語・文学』(法政大学出版局)
 一般的に言って、狂気のない文学はほとんど存在しない。
  (1)他の登場人物と比べて、ある人物が狂人であると提示されないような文学はほとんどない。
  (2)狂人の言語とされるような言語が組み込まれていないような文学はほとんどない。
  (3)書くという行為と、狂人であるという事実のあいだにある種の関係が付与されていないよ
 うな文学はほとんどない。
 一見したところ、西洋においては、上記の1.の技法から3.の技法に移行している(中世の演劇、『ラモーの甥』(2))、ストリンドベリ)。

(2) D. Diderot, Le neveu de Rameau, dans Œuvres, 《 Bibliotheque de la Pleiade 》, Paris, Gallimard, 1951, p. 395-474〔邦訳:D・ディドロ『ラモーの甥』本田喜代治・平岡昇訳、岩波文庫、一九六四年〕。以下を参照。(M・フーコー「狂気の言語――狂人たちの沈黙」、前出のラジオ番組)。

 ディドロ「ラモーの甥」
 ヘーゲル「精神現象学」(上記による示唆)、「精神哲学」
 フーコー「狂気」、フロイト「無意識」(ヘーゲル「精神哲学」による示唆)

 このディドロ(フランス)、ヘーゲル(ドイツ)、フーコー(フランス)という継承に注目すると、狂気に関する思索が、フランスに回帰したといえるかもしれない。

三浦雅士『出生の秘密』(講談社)
だが、『精神現象学』でディドロの『ラモーの甥』が不当なほど大きい位置を占めていることは指摘しておくべきだろう。第六章のB「疎外された精神」の項である。先にふれた主人と奴隷の弁証法に次いで、論じられることの多い箇所だ。
『ラモーの甥』のそのラモーとは、十八世紀フランスの作曲家のあのラモー、オペラ『優雅なインドの国々』(1735年)などで知られる、そしてまたルソーとの音楽上の論争で知られるあのラモーである。だが、ディドロの作品に登場するのはラモーの甥であって、ラモー自身ではない。ラモーの甥は伯父の幻をつねに背負った存在、出生の因果を背負った存在なのである。彼は伯父への嫉妬に苦しみ、その影の下に生きなければならないことに悩み、だが密かに喜んでもいる。そんな存在だ。
『ラモーの甥』はディドロ生前には出版されていない。