ジョ・ヨンイルが引用していたドストエフスキーは、「作家の日記」だった。新潮文庫にもあるような気がする。
 ドストエフスキーは、反ユダヤ主義、アーリア主義であったという。そういえば、佐藤優は「クリミアはネオ・ナチですよ」と言っていた。
 ヒトラーや多くの反ユダヤ主義者には、ドストエフスキーからの影響があるのかもしれない。
 ハイデガー、ポール・ド・マンの反ユダヤ主義が問題にされるが、彼らは、ドストエフスキーを意識していたのだろうか。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年- 1881年)
1880年8月にドストエフスキーはスラヴ主義や西欧主義は間違っていると批判し、「偉大なるアーリア人種に属するすべての民族を全人類的に再結合する」ことはロシア人の使命であり、「すべての民族をキリストの福音による掟に従って完全に兄弟として和合させ、偉大なる全体的調和をもたらす」と主張した[7][33]。
1864年『地下室の手記』
1866年『罪と罰』
1871年『悪霊』
1880年『カラマーゾフの兄弟』
7. ポリアコフ 4巻,pp.109-121.
レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第4巻 自殺に向かうヨーロッパ』菅野賢治・合田正人監訳、小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳、筑摩書房。原著は1977年刊
33. 「プーシキン論」作家の日記3,p.344-5.『作家の日記(六)』米川正夫訳、p.192.
フョードル・ドストエフスキー『作家の日記 III』川端香男里訳、新潮社〈ドストエフスキー全集19巻〉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818年- 1883年)
『処女地』、1877年
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(1799年- 1837年)
ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(1809年- 1852年)
ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(1814年- 1841年)
ニコライ・アレクセーエヴィチ・オストロフスキー(1904年- 1936年)
イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ(1812年- 1891年)

「作家の日記 下」
『ドストエーフスキイ全集 第一五巻』(米川正夫訳、河出書房新社)
一八七七年 1月 第2章
3 ロシヤの諷刺文学 『処女地』 『終焉の歌』 古い思い出

 ツルゲーネフの『処女地』を通読し、第二編を待っている。わたしはもうかれこれ三十年も書きつづけているが、この三十年間にしじゅう幾度となくあるおかしな感想が頭に浮かんでくるのだ。わが国の批評家たちは、だれもかれも(わたしはほとんど四十年近くも文学に目をさらしている人間だが)故人となったのも現存しているのも、一口にいえば、わたしの記憶しているかぎりの批評家は、今のことにせよ昔の話にせよ、現代ロシヤ文学に関して、多少でも晴れの舞台で何か総評でも始めると、(例えば、以前、各雑誌が正月号に、前年度の概観を載せたものである)、必ずきまって、「文学がかかる衰退を示せる現代において」とか、「ロシヤ文学がかかる停滞にある現代において」とか、「文学の不振時代たる現代において」とか、「ロシヤ文学の沙漠をさまよいつつ」等々と同じようなきまり文句を、いくらか程度の相違はあるにしても、実に喜んで使いたがるのである。調子は種々まちまちに変わっているが、内容は一つことだ。ところが、事実において、この四十年間には、プーシキンの晩年の作が現われ、ゴーゴリの芸術が始まって終り、レールモントフが活躍し、オストローフスキイ、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、その他少なく見つもっても十指を屈するにたる、きわめて才能高き文学者が出現したのである。それも美文学の分野だけである! ほとんどいかなる時代、いかなる文学を取って見ても、わが国のごとくかような短い期間に、かように多くの才能のある作家たちが、かように連続して、間断なく出現したというような例はまたとない。と断固として明言することができる。にもかかわらず、わたしは今でも、現につい先月あたりにも、またぞろロシヤ文学の停滞とか、「ロシヤ文学の沙漠」とかいう言葉に出くわしたのだ。もっとも、これはわたし一個のおかしな感想にすぎない。それに、事柄はまったく無邪気な、なんの意味も持たないことである。ただちょっと苦笑を誘われる程度のものだ。