枡田啓三郎の「世には理性の能力を超えたものがあり、その前では理性は立ちどまって他の力に、つまり信仰に、席をゆずらねばならぬ」という言葉も、柄谷行人が最近、語っている霊、宗教を思い起こさせる。
 「自己の能力を超えたものを認識しうるとする」のが、形而上学だという。
 アリストテレスの自然学(physics)、形而上学(metaphysics)の定義も同様だろうか。

カント「学問としての形而上学を実現するために生じうることについて」
 ところが批評家は、自分自身が何か或る特殊な探究に煩わされる必要もなく、著者に不利な仕方で最も容易に著作の全体を提示することができる視点を捕えるために、「この著作は先験的〔あるいは、彼が言い変えるとおりに表現すると、より高い〕観念論の体系である」と主張することから始めて、またそれで終わっているのである。
 この行を見たとき、どういう批評がそこに現われるかを、私はすぐに知った。すなわち、幾何学について何かを聞いたことも見たこともけっしてない人が、ユークリッドの書物を見つけて、これについての彼の意見を述べるよう求められたとすると、ざっと目を通し、多くの図形に出会ったあとで、おそらく「この本は図形を描くための体系的指導書であり、著者は、はっきりしない、理解しにくい規則を作るために、特殊な言葉を使用している。しかし、結局は、この規則では、信用できる自然な目測によってだれでも成し遂げうること以上の何も達成できない」などと言うのと、おおよそ同じようなものであろう、ということである。

枡田啓三郎「カントの生涯」
ハーマンはそこでこう書いている。
「ヒュームという機知に富んだ哲学者は、卵を食ったり一ぱいの水を飲んだりしなければならなくされると、信仰が必要になるのです。」
 この文章はヒュームの『人間悟性の研究』第十項「奇蹟について」から引かれたもので、ハーマンは別の個所で、これに注して「ヒュームは嘲笑的な、かつ批評的な態度でこれを語ったのかもしれないが、それにもかかわらず、これは正統な説であり、ひとりの敵であり迫害者である者の口から出た真理の証言なのだ――彼のすべての懐疑は彼の主張の証言なのだ」と書いている。
 これは明らかに人間の理性の限界を説くもので、世には理性の能力を超えたものがあり、その前では理性は立ちどまって他の力に、つまり信仰に、席をゆずらねばならぬということである。いいかえると、それは従来の超越的な、独断的な、つまり自己の能力を超えたものを認識しうると盲信する形而上学にたいする不信の表明であり、そういう傲慢のいましめである。
わたしは、懐疑と絶望に明け暮れていた若き日のキルケゴールが、数十年後に、同じハーマンのこの同じ言葉を「覚醒のラッパ」として聞き、それが彼の生涯の転機となった事実を思い、このヒュームの言葉が、二人の哲学者に、それぞれ方向は異なりながらも、同じような決定的な影響を与えたふしぎな思想の運命を思わずにはいられない。