ヒュームが、奇蹟と理性について語っていて、やはり、柄谷行人の「貨幣に霊の力がある」という言葉を思い出す。
 柄谷の言葉は、理性ある人には理解が難しい。貨幣が誕生以来、その力が継続している事が奇蹟であり、理性によって理解する事はできないのかもしれない。
 カントによる批評家への反論は、現在の書き手が書いたようだ。
 1766年に、ヒュームはともかく、カント、ルソーがイギリスにいた、というのは比喩的な表現だろうか。

ヒューム『人間悟性の研究』
第十項 奇蹟について

キリスト教はその初期にもろもろの奇蹟に伴われていたばかりでなく、今日においてさえ、奇蹟をぬきにしては、理性ある人に信じられることができない。単に理性だけでは、キリスト教の真理をわれわれに納得させるには足りない。信仰に動かされてそれを認める人なら、誰でも、彼みずからのうちに何か奇蹟がたえず継続しているのを意識し、ために自己の悟性の一切の原則がくつがえされ、習慣と経験にもっとも矛盾し反対しているようなことを信じざるをえなくなるのである。

カント「学問としての形而上学を実現するために生じうることについて」
 私の批評家については、私はまったく違った状況にある。私の批評家は、私がたずさわった〔成功したか、成功しなかったかは、ともかくとして〕探究において、本来何が問題であったかをまったく洞察していないように見える。ところで、それは、広汎な著書を考え通すのに辛抱が欠けているためか、あるいは、とっくの昔にすべてが片付いていると信じこんでいる学問をおびやかす改革に対する不愉快な気分からなのか、あるいは、このように推定するのを私は好まないが、実際に理解力が狭く限られていて、学校形而上学を越え出て考えることがけっしてできないためなのか、要するに、彼は、その前提を知らなければ何も考えることのできない長い命題の系列を、性急に通りぬけ、あちこちに非難を撒き散らしている。読者はその非難の根拠を見ることも、非難が向けられているはずの命題を理解することもできず、したがって私の批評家は読者への報告の役に立ち得ないし、専門家の判断に影響をあたえて私を少しでも不利にすることもできない。そこで、もしこの批評が、『序説』の読者をいくつかの場合に誤解から守りうるいくつかの解明を行なうきっかけを私に与えなかったならば、私はこのような批評をまったく無視していたであろう。

枡田啓三郎「カントの生涯」
 一七六〇―七〇年代は、ふつう批判期の第二期と呼ばれ(第一期は一七六〇年以前、第三期は一七七〇年以降)、カントがヒュームによって独断のまどろみから目をさまさせられた重大な時期として知られている。カントみずからこのヒュームの決定的な影響を『プロレゴーメナ』(一七八三年)のなかで「わたしは率直に告白する、デヴィッド・ヒュームの警告こそ、数年前はじめてわたしの独断のまどろみを破って、思弁哲学の分野におけるわたしの研究にまったく別の方向をとらせたものであった」という有名な言葉であらわしている。つまり、ヒュームの懐疑論といわれるものによって、カントはライプニッツ・ヴォルフ派の独断論から、古い形而上学から、離脱するにいたったというのである。たしかにヒュームは、ルソーが道徳的、実践的な立場にたいして与えたのと同じような大きい影響を、理論的な立場においてカントに与えたのであった。
わたくしたちは自分でヒュームを読みカントを学んで、この時期以後のカントの思想の発展のうちに、自分でそれを探ってみるよりほかはない。しかしカントがすでに批判期の第二期にはいるすこし前の頃から数年にわたってヒュームの研究にたずさわっていたことは疑いない。当時カントの聴講者であったボロフスキは、そのころすでにカントにとって「ハッチソンとヒュームは、前者は道徳の分野で、後者はカントの深い哲学的研究において、とくに重要な人であった。」そしてカントは「われわれにできるだけ綿密に研究することをすすめた」と伝えておるし、シェフナーScheffnerは一七六六年八月十六日の日付で、ヘルダーにあてて「学士(カント)はいまずっとイギリスにいます。ヒュームとルソーがそこにいるからです」と書いているからである。カントがヒュームに注目するにいたったのは、ハーマンのすすめによってであったかどうか、正確なことはわからない。しかし、ハーマンが一七五九年七月二十七日にロンドンからカントにあてて書いた長い手紙がカントを強く刺激してヒュームへの関心を呼びおこしたのではないかは、とかく想像したくなることである。