カントの「プロレゴメナ」、「純粋理性批判」第二版は、ヒュームの経験論批判が主題のようである。

カント「プロレゴーメナ」(中央公論社)
先験的主要問題 第一部 いかにして純粋数学は可能か
§27

 いまや、ヒュームの疑いをことごとく取り除くべき箇所である。彼が正当に主張したのは、因果性の可能性、すなわち、或るものの存在がそれによって必然的に定立される何か他のものの存在に対するその或るものの存在の関係の可能性を、われわれは、理性によってはいかなる仕方ででも理解しない、ということである。さらに付け加えて言うと、われわれは、実体の概念、すなわち、物の存在の基礎にそれ自身はなんらの他の物の述語となり得ない主体が存するということの必然性の概念も同じく理解しない。それどころか、われわれはそういう物の可能性を理解できない〔もっとも、経験においてそういう概念が使用されている例を指示できるのではあるが〕。同時にまた、まさにこの理解できないことは物の相互性にもかかわる。というのは、いかにして一つの物の状態から、そのそとのまったく別の物の状態へ、それも交互に帰結が引き出されうるのか、いかにしてそれぞれ固有の区別された存在をもつ実体が相互に、しかも必然的に依存し合わねばならないのか、まったく理解され得ないからである。そうはいっても、私は、これらの概念を、単に経験から借りられたものとして、またそれらのなかに表象される必然性を虚構されたものとして、長いあいだの習慣が見せかける単なる仮象とみなすなどと思ったりはしない。むしろ私は、これらの概念とこれらから導き出される原則が、すべての経験に先立ってア・プリオリに確立しており、たしかに経験に関してだけだが、疑えない客観的な正しさをもつことを十分に示したのである。

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Kritik der reinen Vernunft
von Immanuel Kant
I. Transzendentale Elementarlehre
§ 14 Ubergang zur transz. Deduktion der Kategorien

Der beruhmte Locke hatte, aus Ermangelung dieser Betrachtung, und weil er reine Begriffe des Verstandes in der Erfahrung antraf, sie auch von der Erfahrung abgeleitet, und verfuhr doch so inkonsequent, das er damit Versuche zu Erkenntnissen wagte, die weit uber alle Erfahrungsgrenze hinausgehen. David Hume erkannte, um das letztere tun zu konnen, sei es notwendig, das diese Begriffe ihren Ursprung a priori haben musten. Da er sich aber gar nicht erklaren konnte, wie es moglich sei, das der Verstand Begriffe, die an sich im Verstande nicht verbunden sind, doch als im Gegenstande notwendig verbunden denken musse, und darauf nicht verfiel, das vielleicht der Verstand durch diese Begriffe selbst Urheber der Erfahrung, worin seine Gegenstande angetroffen werden, sein konne, so leitete er sie, durch Not gedrungen, von der Erfahrung ab (namlich von einer durch oftere Assoziation in der Erfahrung entsprungenen subjektiven Notwendigkeit, welche zuletzt falschlich fur objektiv gehalten wird, d.i. der Gewohnheit), verfuhr aber hernach sehr konsequent, darin, das er es fur unmoglich erklarte, mit diesen Begriffen und den Grundsatzen, die sie veranlassen, uber die Erfahrungsgrenze hinauszugehen. Die empirische Ableitung aber, worauf beide verfielen, last sich mit der Wirklichkeit der wissenschaftlichen Erkenntnisse a priori, die wir haben, namlich der reinen Mathematik und allgemeinen Naturwissenschaft, nicht vereinigen, und wird also durch das Faktum widerlegt.

カント「純粋理性批判」『世界の大思想10』(高峯一愚訳、河出書房)
一、先験的原理論
第二章 純粋悟性概念の演繹について
第一節{一四} 範疇の先験的演繹への移りゆき
B127

デヴィッド・ヒュームは、この試みをなすことができるためには、これらの概念がその起源を先天的に有しなければならないことへの、必要であることを認めた。けれども彼は、それ自身としては悟性のうちに結合せしめられていない概念〔因果〕を、それにもかかわらず対象のうちに必然的に結合せしめられているものとして悟性が考えなければならないということが、いかに可能であるかを、まったく説明することができず、おそらく悟性がこれらの概念によって、みずからそこに自己の対象の見いだされる経験の創始〔構成〕者たりうるのではあるまいかということに思いつかなかったがために、彼は余儀なくこれらの概念を経験から導き出した。(すなわち経験においてしばしば連想されるために生じ、結局誤って客観的と考えられる主観的必然性、すなわち習慣性から)。けれどもその後に彼は、きわめて首尾一貫した態度をとり、このような概念、及びこのような概念から誘致される原則をもってしては、経験の限界外に越え出ることはできないと説いた。しかしロック及びヒュームの両者がひとしく着眼した経験的導出法は、われわれの有する先天的学的認識の実際、すなわち純粋数学及び一般自然科学の実際とは一致せず、したがって事実によって否定されるのである。