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 図書館で借りて来た。

大澤真幸・國分功一郎「コロナ時代の哲学」
中上健次「現代小説の方法」
加藤典洋「僕が批評家になったわけ」
山本哲士「国つ神論」

 國分功一郎・大澤真幸の対談で、柄谷行人に言及があった。
 「哲学の起源」で、それほど、移動の自由が語られていただろうかと思った(移動というと、高城剛氏を思い出す)。柄谷が語る移動と言うと、カント、マルクスからの視点を移動する批評、トランスクリティークというのもあった。
 イオニア、17世紀のアメリカ東海岸、イロコイ(NAMも含むか)を語る時、参加する時も離れる時も自由である、と言っていたと思う。
 3・11後、僕も参加した脱原発デモも、まさに、移動だった。
 柄谷氏は、自身が文学から哲学に移動した、と言っていたかもしれない。

國分功一郎・大澤真幸「哲学者からの警鐘――例外状態、国家権力、死者の権利」
『コロナ時代の哲学』(左右社)
國分 もうひとつ、数ある自由の中で、彼(アガンベン)が移動の自由の重要性を強調していることは大変印象的でしたし、やはりわかっている人だなと思ったんです。思想の自由や言論の自由、職業選択の自由など、近代社会がこれまでに確立してきたさまざまな自由はいずれも貴重なものです。しかし、自由がどれだけ蹂躙されようとも、そこから逃げる自由さえあれば、なんとかなる。逃げることができれば、別のところで自由を回復できる。つまり移動の自由は、原−自由とでも呼ぶべきものであって、あらゆる自由の拠り所なんですね。最近では、柄谷行人さんの『哲学の起源』がこの自由に注目していたと思います*20。移動の自由はさまざまにある自由のひとつではなく、自由の根底にあるものだということです。
*20 柄谷行人は『哲学の起源』において、古代イオニアで自由と平等が実現していたと述べている。そして、それを実現する条件に「移動の自由」があったと考えた。『戦後思想の到達点 柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』の対談でも、移動や遊動性の話をしている。このテーマを柄谷は若い頃から追及していた。彼自身は実際の生活ではあまり移動しないが、理論的には重視していたようだ(大澤)