長孫無忌を調べていて、李淵が太原で起兵したと知り、僕の父一家が、戦時中に太原に住んでいた事を思い出した。
 盧溝橋事件、太原作戦の後と思われる。太原に住んだ経緯を聞いた事があるが、よく覚えていない。

617年 唐の高祖李淵が太原で起兵して長安を奪い、長春宮で長孫無忌と謁見。
1934年 僕の父が札幌で生まれる。
1937年 盧溝橋事件、太原作戦。
1945年まで 僕の祖父(国鉄)、父、伯母らが太原に居住。
1995年頃 伯母が太原に旅行。

倉野憲司「古事記序文考」(京都印書館・立命館出版部)
 また稗田阿禮について、
  時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。
とあるのも、五經正義表の孔頴逹に關する記事と關係はあるが、なほ直接の典據は、文選卷八、孔融の薦禰衡表の、
  竊見處士平原禰衡。年二十四。字正平。淑質貞亮 英才卓躒。初渉藝文。升堂覩奥。目所一見。
輙誦於口。耳所暫聞。不忘於心。
或ひは又、同卷十、夏湛の東方朔晝像贊幷序の、
  大夫諱朔字曼倩。……事漢武帝。……經目而諷於口。過耳而闇於心。
などと考へられる。而して、
  連柯幷穗之瑞。史不絶書。列烽重譯之貢。府無空月。
も亦、五經正義表と共に、文選卷十、顔延之の三月三日曲水詩序の、
  赬莖素毳。幷柯共穗之瑞。史不絶書。棧山航海。踰沙軼漠之貢。府無虛月。烈燧千城。通驛萬里。
を出典として提示することが出來る。更にまた、
  謹隨詔旨。子細採摭。‥‥已因訓述者。詞不逮心。全不音連者。事趣更長。是以今或一句之中。交用音訓。或一事之內。全以訓錄。
の條も、恐らくは文選卷十、孔安國の尚書序の中の、
  承詔爲五十九篇作傳。於是遂硏精覃思。博考經籍。采摭群言。以立訓傳。約文申義。敷暢厥旨。
或ひは同、杜預の春秋左氏傳序の、
  若夫制作之文。所以章往考來。情見乎辭。言高即旨遠。辭約則義微。此理之常。
などの文に據つたものではあるまいかと思はれる。
 以上は僅かに數例に過ぎないが、これらを以つてしても、古事記序が如何に漢文學の影響を蒙つたものであるかといふことは頷かれるであらう。卽ち安萬侶は、進五經正義表に倣ひ、進律硫議表、或ひは文選、或ひは書經の字句を引き、専ら潤色藻絢に意を注いで記序を作つたのであるが、よく我が故事を範し得たところに、その學殖藻思の豐かさを窺ひ得るのである。而してかくの如き漢文學への依據は、當時一般の風潮であつて、懐風藻に及ぼした文選序の影響などは既に周知の事であるが、出雲風土記の各郡の條下に單なる地誌的記述として載せられてゐる。
  凡諸山野所在草木。白歛桔梗藍漆龍瞻商陸續斷獨活白芷秦桝百部根百合卷栢石斛升麻當歸石葦麥門冬杜仲細辛伏苓葛根薇蕨藤李蜀椒檜杉榧赤桐白桐椿槻柘楡蘗楮。禽獣則有風蠡諍鑄鳩山鷄鶉鵠狼猪鹿兎狐獼猴飛鼯也。(談膩粥
の如きも、實は文選の、
  木則樅括椶楠梓梗棫楓。』
  草則葴莎菅蒯薇蕨荔苀王蒭莔臺戎葵懷羊。』(以上、卷一、長衡「西京賦」)
  其木則檉松楔槾槾栢杻橿楓柙櫨櫪帝女之桑楈枒,栟櫚秧檍檀。』
  其草則有藨苧薠莞蒋菰蒹葭藻茆菱‥。』
  其鳥則有鴛鴦鵠鷖鴻㨶鴐鵞𪃈鶂鸊鶙鷫鷞鵾鸕‥。』(以上、同、「南都賦」)
などに據つたものである事を比したならば、思ひ半ばに過ぎるものがあらう。これを要するに記序の撰者太安萬侶は、和魂漢才の尤なる者であつたと稱すべく、われ〱は記序を通して、當時に於ける漢文學の一班を伺ひ得ると共に、國家的精辰鯡世蕕に認め得る點に、記序の高い價値があると信ずるのである。
 一體古事記の序文は、これを内容の方面から觀ると大凡三段に分けることが出來る。
 第一段は冒頭から「莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶」までで、古事記の内容卽ち國家經緯の歷史を要約して敍べ、以つて歷史の眞の意義と目的とを明らかにしてゐる。卽ち、
 〇天之御中主叩高御産巢日叩短巢日辰梁げ修厘奠辰僚亳宗
 〇伊邪那岐・伊邪那美二辰僚鏤蹟(國生み・胆犬漾ε珪搬茆辰修梁召煉叩垢慮羹亳宗
 〇天照大辰反楮看恵北燭慮羯蹟(安河の誓約・天石屋戸隠れ・大蛇退治 御抽磴糧本董
 〇葦原の中つ國平定の會議と大國主辰淋土避讓。
 〇天孫降臨。
 〇檀霤傾弔慮翕貔。
 〇崇壇傾弔慮羞副叩
 〇仁天皇の御仁政。
 〇成務天皇の國縣御制定。
 〇允恭天皇の氏姓御正定。
の如く天地初發以來の我が國の歴史の要所を摘撮してゐるが、初めの六項は、痴日本の國體國教の大本原を表掲し、我が國家の成立組織の根本義を明らかにしたものであり、次ぎの二項は、仰いで辰魴匹辧∃蹐靴凸韻鮖しみ給ふ王化の鴻基を明白にしたものであり、終はりの二項は、政治上の管轄地域と民族の等級所屬とを明確にしたもの、卽ち國家行政の一大原則を示したものであって、飽くまで國家的精辰魄覆弔峠始してゐる。而して右の諸項を總括して、
  雖步驟各異。文質不同。莫不稽古以繩風猷於既頽。照今以補典教於欲絶。
と敍べてゐるが、これについて宣長が、「此は上件の事どもを取總てことわれるなり。(中略)さてかくいへること、必しも上に擧たる事ども、悉には當らねども、只漢人の常にいふなる趣を、文のかざりに書るのみなり(6)。」と説いたのは、認識不足と言はなければならない。なるほど進五經正義表の中の典故ある文字を使つて文を飾つてはゐるが、彼れが「稽古」のみを敍べてゐるに反し、此れは「稽古」と「照今」とを相對せしめてゐる點に非常な相違がある。單に古を稽へるのみでは、徒らに死物を弄ぶに等しい。稽古の眞の目的はそれを以つて今を照らすに在る。卽ち過去の事象を明らめ、それを以つて現在の國家社會の規範としてこそ、はじめて稽古の意義があるのである。歷史は後人の自らを識るべき鏡であり、後世の紛亂を治むべき綱紀である。こゝに於いて歷朝悉く萬世不易の我が國體・國教の維持顯揚の爲に、古を稽へ以つて今を照らし給うたのであつて、この事を以つて第一段の總括とし、兼ねて第二段を書き起こす契機としたところに、畫龍點晴の妙を覺えるのである。
 第二段は「曁飛鳥羝饗腟楔翅脆洲天皇御世」から「然運移世異未行其事矣」までで、天武天皇の御事蹟を記し奉つてゐる。卽ち初めに天皇の御聖を稱へ、次ぎに邦家の經緯であり王化の鴻基である帝紀と舊辭を削定せんの叡慮ありしが竟に果たし給はず、僅かに誦習のみ行はれた事を敍べてゐる。つまり天皇も亦古を稽へて以つて今を照らすべく、帝紀・舊辭の削僞定實を企て給うた事を記して前段と契合せしめてゐるが、要するにこの段は、古事記撰錄の遠因を示したものといふべきである。
 第三段は「伏惟皇帝陛下」以下終はりまでで、元明天皇の御事蹟を記し奉つてゐる。卽ち最初に天皇の御盛を讃へ、次ぎに天武天皇の御遺旨を繼がせ給うて、和銅四年に安萬侶に詔して天武天皇の御世に稗田阿禮に習せしめられた帝紀・舊辭の撰錄を命ぜられたので、撰者安萬侶は表現上の困難を冒して、竟に翌五年、三巻を錄して獻上する次第を陳べてゐる。つまりこの段は、古事記撰錄の近因とその成立過程とを記してゐる。
 かう見て來ると、古事記序は始めあり中あり終はりある全一なる形を有して居り、これを一貫するものは、國家的立ち場よりの稽古照今、卽ち國家的精神の維持顯揚である。而して記序を通して古事記の本質を窺ひ得るばかりでなく、持に中と終はりとによつて古事記の成立事情が知られるところに、亦記序の絶大なる價値が存すると思ふのである。
(6)、古事記傳、二之卷。
(「上代國文」第二巻第一號、昭和十年五月號、後補)