太安萬侶(?〜723年)の萬侶という表記は、麻呂という表記が一般的になる前だったからだろうか。

 倉野憲司氏(1902年〜1991年)が戦中、教授だった皇学館大学は、1882年、伊勢神宮祭主・久邇宮朝彦親王(1824年〜1891年)の令旨によって設置された、神宮皇学館を母体とするらしい。
 久邇宮朝彦親王は、北朝第3代崇光天皇(1348年〜1351年)の男系15世子孫だという。

崇光天皇―伏見宮栄仁―貞成―貞常―邦高―貞敦―邦輔―邦房―貞清―貞致―邦永―貞建―邦頼―貞敬―邦家―久邇宮朝彦

 倉野氏の「學殖文思の人に過ぐる」という文章で、「過ぎる」と「優れる」は、語源が同じなのかと思った。

倉野憲司「古事記序文考」(京都印書館・立命館出版部)
 然らば安萬侶は進五經正義表のみを模範として記序を作つたかといふに決してさうではない。嚮に志田延義氏が指摘された(4)やうに、進五經正義表と共に、同じく長孫無忌の「進律疏議表」(欽定全唐文巻一百三十六に據る)が參酌されたと考へられるのである。左に記序との類似乃至共通した部分を擧げて見よう。
  臣無忌等言。臣聞三才既分。法星著於元象。六位斯列。習坎彰於易經。(中略)大唐握乾符以應期。得天統而御歷。誅阪泉之巨猾。剿丹浦之凶渠。掃旬始而靜天綱。廓妖氛而清地紀。朱旗乃舉東城。高滅楚之功。黃鉞裁麾西土。建翦商之業。總六合而光宅。包四大以凝旒。(中略)伏惟皇帝陛下。體元纂業。則大臨人。覆載並於乾坤。照臨運於日月。坐青蒲而。化光四表。負丹斬而。被九圍。(中略)乃制太尉揚州都督監修國史上柱國趙國公長孫無忌。‥‥等。撫金匱之故事。採石室之逸書。捐彼凝脂。敦茲簡要。網羅訓誥。研鍇穹兀。撰律疏三十卷。筆削已了。(中略)謹詣朝堂。奏表以聞。臣無忌等。誠惶誠恐頓首頓首。永徽四年十一月十九日進(5)。
右のうち〇印を附した語句は記序と共通するものであるが、以つて記序が進律疏議表に負ふところも決して僅少でなかつたことが知られるであらう。
 なほ部分的に見ると、右の「進律疏議表」の外に「文選」や「書經」の語句をも引用してゐるのであつて、そこに安萬侶の漢文學に對する造詣の如何に深かつたかを認めることが出來るのである。左にその例を擧げて見ると、「曁飛鳥羝饗腟楔翅臠洲天皇御世」から「設値以奬俗敷英風以弘國」までの文中に、進五經正義表に出典の求められる字句が相當に存することは、前に注意した通りであるが、この外には、先づ文選巻一、班固の東都賦の中の次ぎの文を擧げることが出來る。
  下人號而上訴、上帝懷而降監。乃致命乎聖皇。乃握乾符。闡坤珍。披皇圖稽帝文。赫然發憤。應若興雲。霆擊昆陽。憑怒雷震。遂超大河跨北嶽。立號高邑。建都河洛。紹百王之荒屯。因造化之盪滌。體元立制。繼天而作。系唐統接漢緒。茂育群生。恢復彊宇。
次ぎには同巻十、王融の三月三日典水詩序の、
  皇帝體膺上聖。運鍾下武。冠五行之秀氣。邁三代之英風。昭章雲漢。暉麗日月。牢竈天地。彈厭山川。設値以景俗。敷文化以柔遠。
といふ一節を擧げることが出來る。この二つは從來の學者の全く氣付かなかつたものであるが、書經、周書、武成篇の、
  厥四月哉生明。王來自商至于豐。乃偃武修文、歸馬于華山之陽。放牛于桃林之野。
といふ周の武王の故事のみは、早くから出典として認められたところである。
(4)、國語と國文學、十二ノ二所載「古事記上表の諸典據」(1935年)
(5)、欽定全唐文巻第一百三十六に據る。