デリダの「散種」のこの箇所で、柄谷行人が最近、語っている「貨幣の霊の力」を思い出した。
 エクリチュール(書き言葉。貨幣にも印字がある)には、幽霊が委ねられている、という事だろうか。「論理と呼べない」は、柄谷のいうフェティシズムのように思える。
 「自分自身に由来する」は、不完全性定理に通じるか。

ジャック・デリダ「プラトンのパルマケイアー」(1968年)
『散種』(藤本一勇・立花史・郷原佳以訳、法政大学出版局)
 なおも自分自身に由来することでしかエクリチュールを支配することを望みえない論理に、エクリチュールはみずからの幽霊(ファントム)のみを委ねるのだとしたら。もし以上のようであるとすれば、もはや単に論理とか言説とか呼ぶこともできなくなるものを、いくつかの奇妙な運動へと折り曲げ〔従属させ〕なければならなくなるだろう。不用意にもいまわれわれが幽霊と名づけたものが、真理から、現実から、生きた肉などから、もはや同じような安心感をもっては区別されえないのだから、なおさらである。ある意味で、幽霊を残すということは何も救わないことであると、いまの場合は、そう認めなければならない。

 デリダが引用した、ゴルギアス(前487年〜前376年)「ヘレネ礼賛」で、木村花さんを思い出した。
 「言説はひとを苦しませる」。言説、聞き手とあるので、ここでは、話し言葉について語られているようだ。

ゴルギアス「ヘレネ礼賛」
 言説の力と魂の配置との関係は、薬物の配置と身体の性質との関係と同じ関係である。ある種の薬物は身体から体液を排出するが、そうした薬物には病気を終わらせるものもあれば、生命を終わらせるものもある。それと同じように、言説にもひとを苦しませるものもあれば、喜ばせるものもある。聞き手を恐怖に陥れるものもあれば、勇気づけるものもある。また、悪しき説得力によって魂を薬漬けにし、魂を呪縛するものもある。