袋草紙における、難後拾遺の最後の言及箇所である。
 源経信は、源氏以外の作者の歌を批判しているのかと思ったが、ここで言及された、9首目の作者は、源為善だった。

藤原清輔「袋草紙」(岩波書店)
下巻 一、故人の和歌の難
 難後拾遺(一四)に云はく、経信卿の所為と云ゝ(一五)。
  たづのすむ沢辺のあしのした根とけ水際もえいづる春はきにけり(一六)
これは上手の歌と書き付けられたれば、いとおそろし。仰ぎて信ずべけれども、「沢辺」と「水際」とは同じ事なるが上に、「みぎはにもえいづ」とこそ云ふべけれ。「みぎはもえいづ」とあれば、「に」文字入るべく覚ゆ。げにくはしからねど、かやうによみたる歌もあらん。
  かりに来ばゆきてもみまし片岡の朝の原にきぎすなくなり(二〇)
この歌の詞に、「鳥多く群れ居たる形かきたる」とあるは、水鳥などにやありけん。さらば、「きぎす」とよまれたるはいかが。鳥なればいづれも同じ事か。「花鳥」と詩題にあるは鶯など思ひならひたるを、丞相の御詩に鳥の方に鶴を作られたる事もあり。
  ゆきかへるたびに年降るかりがねはいくその春をよそにみるらん(二三)
春は「花のある」などよまれたらばこそげにとも覚えめ、ただ、「春をなんよそにみる」とあらんは、なにごとのいみじかるべきぞ。また、「旅に年経」とは、道路に年をへばこそ、かくはよまめ。
  小萩さく秋まであらば思ひいでん嵯峨野をやきし春はその日と(三)
これは思ひ出でても、何事のいみじかるべきぞ。
  さくら花さかりになればふるさとのむぐらの門もさされざりけり(五)
「ふるさと」とは、ただ古くなれる家を云ふか。然らば謂れあり。もし今は住まざる家を云はば、いかがあらん。これは、ならのみやこをよむより起こりたる事とこそ聞きたまへしか。
  なかぬ夜もなく夜もさらにほととぎす待つとてやすきいやは寝らるる(七)
この歌合には右方にて侍りしかば、その程の事はくはしく聞き給へしなり。故宮内卿経長は、蔵人弁にて左の方人にて、その歌どもを四条大納言の長谷に籠居せられたる所に、もてまうでて問ひあはせられけるに、申されけるは、「歌はあしうもあらず。「さらに」と云ふ詞を、よしもなういたづら事なれ」と申されけると聞き給へしこそ、さもあることと覚えしか。
  思ふてふことをば言はで思ひけりつらきもいまはつらしと思はじ(一二)
「思ふてふことを言はで思ひけり」といはば、「つらきをも言はじ」とならばこそよからめと覚ゆ。如何。
  わが心かはらむ物かかはらやのしたたく煙したむせびつつ(一三)
「かはらむ物か」とよみたるは、人を思ふ事のかはるまじきか。不審なり。烟をば「わく」とはいふらんや。わきあがるやうなりといふを思へるか。
  山のはにいりぬる月のわれならばうき世の中にまたはいでじを(一六)
この歌心はあれど、はての「いでじ」をこそたはぶれ事のやうにて、あさはやかなれ。おほよそ月のまた出でざらんは、いと不便の事なり。かかる事はよまずとこそ聞きたまふれ。
一四 難後拾遺抄。藤原通俊の撰した後拾遺集に対する疑問を、集中の歌八十四首を引用して論難したもの。作者は源経信。以下に九首分が原文とほぼ同文で掲出されている。
一五 上巻・雑談の初頭に「また難後拾遺と云ふ物有り。世もつて経信卿の所為と称す」とある。
一六 後拾遺集・春上・九、大中臣能宣。
二〇 後拾遺集・春上・四七、藤原長能。
二三 後拾遺集・春上・六九、藤原道信。
三 後拾遺集・春上・八〇、加茂成助。
五 後拾遺集・春上・一一四、中納言定頼。
七 後拾遺集・夏・一九三、赤染衛門。
一二 後拾遺集・恋四・七八六、題不知、平兼盛。
一三 後拾遺集・恋四・八一八、題不知、藤原長能。
一六 後拾遺集・雑一・八五七「思ふことありけるころ、山寺に月を見てよみ侍りける 源為善朝臣」。