藤原通俊が、源経信に後拾遺集を見せ、意見を採り入れたという事から、単純に両者に確執があったと考えるべきではないかもしれない。
 経信は、通俊への批判より、優れた歌集の完成に関心はあっただろう。
 経信は大宰府にいた為に、撰集に参加できなかったのではないかと思ったが、大宰府に滞在したのは1095年以降で、後拾遺集が完成した1086年より、かなり後の時期だった。
 源経信の日記「帥記」(1068〜1087年が現存)が「増補史料大成 第5巻」(臨川書店)に掲載されているらしく、後拾遺集への言及があるか、確認したいと思う。

藤原清輔「袋草紙」(藤岡忠美校注、岩波書店)
上巻 一、雑談
 元慶は大山の別当なり。筑紫にて郭公を詠む。
  わがやどのかきねな過ぎそ時鳥いづれのさとも同じ卯の花(二)
 而して上洛の時、山崎の辺において下女の臼歌にこれを唄ふ。元慶これを聞きて、涙を拭ふと云々。而して難後拾遺(四)に云はく、「この歌は、筑紫に侍る時(五)、良暹が「吾が歌」となん云ふと聞きて、「これは古歌とこそ聞きしか」と云ひ侍りしかば、「七十法師の若き上(六)に読みたりしかば古歌と申す、虚言ならず」と申すを、元慶が歌とあれば、撰者(七)に問ひ侍りしかば、「実源律師筑紫に在りし時、『元慶がまさしくよめりしをみたるなり』と申せば、その由を存ずるなり」と云々。実源は資通の大弐の任に下向す。良暹が「吾が歌」と称せし事はその前なり。良暹が歌を書きて出だせにけるにや(八)。元慶は僻事なり(九)」と云々。
二 後拾遺集・夏・一七八「つくしの大山寺といふ所にて歌合し侍りけるによめる 元慶法師」。
四 源経信の後拾遺集論難の書。
五 経信の筑紫下向は二度認められる。
六 「若き上」は七十法師良暹の若かった昔。難後拾遺に「七十のほうしのわがかみに」とある。
七 後拾遺集撰者藤原通俊。
八 元慶が良暹の歌を自作として書き、歌合に出詠したのであろうか。
九 元慶の作とするのは間違いだの意。難後拾遺は「元慶が歌といふ事はそらごとなり」という。