日本に、中国から梅が伝わった経緯を考えるのも面白いかもしれない。
 それにしても、漢字の旧字体をパソコンで入力するのは手間がかかる。新字体・旧字体の変換に特化した入力ソフトは、需要が少ないから無いかもしれない。
 新字体は、日本の言い方で、戦後、敗戦を終戦と言い換えたのと同時期に制定され、旧字体を使った戦前を乗り越えようという国の意志があったという気がする。
 旧字体・新字体と言われる字は、どちらも漢字として存在していて、新字体は旧字体を略した表記から選ばれたと思う。但し、新字体「芸」は、旧字体「藝」と意味が全然違う、という人もいる。
 日本で新字体が制定された後、中国で簡体字が制定されたと思う。日本で仮名が使われ始めた後、朝鮮でハングルが発明されたように(高校の授業で、漢字では日本人に分かるからと聞いた)。
 日本の平仮名も、漢字の草書が元になっているが、あ(安)、め(女)、も(母)、わ(和)、れ(礼)など、平仮名は漢字である、と言えるとも思う。

古澤未知男「梅花歌序考」
『國語と國文学』昭和三十年(一九五五年)八月
 萬葉集が形式内容の両面に亘つて漢文學に負ふ所頗る多い事は既に周知の通りである。同書巻五所載梅花歌及び其の序も亦明らかに其の一つである。次田順氏も
  梅はもと支那から傳へられた花である。太宰府は唐との交通も頻繁であつたから梅もよほど早く移植せられたものと察せられる。歌會の物に見えたのは恐らく是が最初であらう。(萬葉集新講二七八頁)
と言つて居られる通り、第一、梅や觀梅の宴は固より、梅を題詠するといふ如き既に中國の風を承けたものに外ならない。
 次に形式方面から言つて「梅花歌序」の序や「宜賦園梅聊成短詠」の賦とか短詠とかいふ用語や形式がこれ又中國のそれに倣つたものであり、更に作者の氏を記すに例へば大伴氏を伴氏、阿某氏を唯、阿氏と態々一字に書するが如き共に顕著な模倣の跡を物語る。
 或は内容の上から見ても、
  春の野に霧たち渡り降る雪と人の見るまで梅の花散る
  (巻五、梅花歌)
  妹が家に雪かも降ると見るまでにこゝだも紛ふ梅の花かも(同上)
と梅花の散るを雪の降るに譬へたり
  雪の色を奪ひて咲ける梅の花いま盛りなり見む人もがな
  (同巻 後追和梅歌)
といふやうな漢語的表現、或は又
  梅の花夢に語らくみやびたる花と吾思ふ酒に浮べこそ(同上)
と花の精が夢に現はれて問答するといふ如き構想、これ等は皆多分に漢文學の影響下に成つて居る。
 尚又序文中には「加以」・「庭舞新蝶」・「空歸故雁」といふ措辭を用ひて居るが、それは正式の漢文通り「加フルニ……ヲ以テス」・「庭ニ新蝶ヲ舞ハシメ」・「空ニ故雁ヲ歸シ」などではない。此の場合前者は「加ヘテ以テ」か若しくは単に「加フルニ」と読むべく、後者はやはり「庭ニ新蝶舞ヒ」・「空ニ故雁歸リ」と訓まなければ意味が通じない。言はゞ破格・變則であるが、元來漢文的表現方式を借用した萬葉集としては止むを得ない結果と言はなければならない。