ハイデガー「ドイツの大学の自己主張」 一九三三年五月二十七日 学長就任演説
一九三三年 第一版 フライブルク
一九三四年 第二版 ブレスラウ
 学長職を引き受けることは、この大学の精神的指導を行う義務を負うことである。教師と学生は、この精神的指導に従って、真に足並みを揃えてドイツの大学の本質に根を下ろすことによってのみ、目覚めて力をもつことができる。しかし、まず何よりも、そしていかなる時にも、指導者たるもの自身が指導される者であるとき、つまりドイツ民族の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託に導かれるとき、そのときに初めて、ドイツの大学の本質は明晰さと偉大さと力をもつに至るのである

 我々はこうした精神的負託を知っているのだろうか。この問いに然りと答えるにせよ否と答えるにせよ、我々は次の問いからは逃れることができない。つまり、我々この大学の教師と学生は、ドイツの大学の本質に、真にそして足並みを揃えて、根を下ろしているのであろうか。そしてこのドイツの大学の本質は、我々の現存在にとって真の影響力をもっているのであろうか。我々がこの本質を根本から希求するときにのみ、然りである。概して、大学の本質はその〈自治〉にあると見なされており、これは堅持さるべきものとされている。しかし、我々がどうして自治をこのように要求するのかを、我々はまともに考えてきたと言えるであろうか。
 自治とはしかし、我々自身に使命を課し、その実現の方策を自ら定め、我々がそうあらねばならないものに自らなるということなのである。しかし、ドイツ民族の最高学府の教師であり学生である我々は、我々自身が何者であるかを知っているのであろうか。我々は、絶え間なき自己規定なしに、この上なく厳しい自己規定なしに、これを知ることができるのであろうか

 ドイツの大学の自己主張とは、その本質に対する根源的かつ共通の意志である。ドイツの大学は、我々にとって、学問から出て、学問によって、ドイツ民族を指導する者、ドイツ民族を守る者を教育し陶冶する最高学府なのである。ドイツの大学の本質へ至ろうとする意志は、ドイツ民族の歴史的、精神的負託へ至ろうとする意志としての学問への意志である。学問とドイツの運命は、何よりも、本質的意志において力をもたなければならない。学問とドイツの運命は、我々が――教師も学生も――一方で学問をそのもっとも内奥の必然性に晒すときに、また他方で我々がドイツの運命の極度の困窮に立ち向かうときに、そしてそのときにのみ、力をもつことになるであろう

 規律 自分たち 根源的なもの
 我々が、我々の精神的=歴史的現存在の始原の力に再び身を任せるときである

 この始原は、ギリシャ哲学が発生したときであって、ここに、西欧の人間は初めて、その言語によって民族性を自覚して、全体として存在するものに抗して立上り、それに問いを突きつけ、それを存在者そのものとして理解する。あらゆる学問は、哲学なのである。そうと知ろうと知るまいと、そう望もうと望むまいと関係なく、あらゆる学問は、哲学であって、哲学のあの始原から離れることはない。あらゆる学問は、たとえこの始原に劣らないものになっていようとも、その本質の力をこの始原から汲み取っているのである

 今日激しく行われている戦いは、数千年の時間を繫ぎ合わせ、ギリシャ精神とゲルマン精神をともに包含する一つの文化の、自らの現存在を求めての戦いという偉大なる目標をもつものなのである

 実践を理論に一致させること
 逆に、理論そのものを真の実践の最高の実現と理解すること
 ギリシャ人にとっては、学問は〈文化的遺産〉ではなく、民族=国家としての現存在全体のもっとも内奥の決定的中枢
 事物に対する知はすべて、運命の大きな力の手中にあって、その前では無力である
 精神的

 これが学問の始原における本質である。しかしこの始原は、すでに二千五百年も前にことではないか。人間の行為における進歩がこの学問をも変えたのではないか。確かにその通りである。後代のキリスト教的=神学的世界解釈も、近代になってからの数学的=技術的思考も、学問を時間的にも内容的にもその始原から離してしまっている。しかしそうだとしても、始原そのものは決して克服されてもいなければ、無になってもいない。というのも、始原のギリシャの学問が偉大なる何ものかであるとするならば、この偉大なるものの始原は、偉大なるものの中の最たるものだからである。学問の本質は、今日、さまざまな成果が生まれ、〈国際機関〉が活躍しているにもかかわらず、空疎になっているが、始原の偉大さがいまなお存在しているならば、決して枯渇することも、根絶やしになることもありえないであろう。そして始原はいまもなお存続しているのである。それは、はるか昔に存在したものとして我々の背後にあるのではなく、我々の前に立っている。始原は、もっとも偉大なるものとして、あらかじめ、あらゆる到来するものの頭上を、我々の頭上をも、すでに超えて先へ行っている。始原は、我々の未来に飛び去って、その偉大さをそこまでもって来るようにと、彼方から我々に命じているのである。
 始原の偉大さを取り戻せというこの彼方からの命令に従うことを我々が決断するときにのみ、学問は、我々にとって、現存在のもっとも内奥の必然性となる。そうでなければ、学問は、我々がたまたま出会う偶然であるか、さもなくば、知識の単なる進歩を助成するだけの危険のない安楽な気晴らしでしかない。
 彼方からの始原の命令ずるところに従うとき、学問は、我々の精神的=民族的現存在の基本的出来事にならねばならない

 国際機関

 我々が、存在するもの全体の不確かさのただ中で、何かに頼るのではなく直接に問いを発する態度を取り続けるという意味で、この学問の本質を望むならば、この本質への意志こそが、我々の民族のために、内的外的な危険に晒された世界、つまりは真に精神的な世界を作り出してくれる。というのも、〈精神〉は、明晰ではあっても無内容な頭脳ではなく、無意味な才気の遊戯でもなく、知的分析の果てしない営みでもなく、ましてや世界理性などでもないからである。精神はあくまで、存在の本質へ向かって根源を志向する知的決断なのである。そして民族の精神的世界とは、文化の上部構造ではなく、もとより有用な知識や価値を蓄えて置く兵器庫でもなく、民族の現存在をもっとも奥深いところで高揚させ、極度に震撼させる力、民族の大地と血に根ざした諸力をもっとも深いところで保持する力なのである。精神的な世界のみが民族に偉大さを保証する。というのも、精神的な世界は、偉大さを求める意志と没落するに任せる無意志との間での絶えざる決断が、我々の民族がその未来の歴史へ向かって踏み出した行進のための歩行法則となることを強く促すからである

 我々が学問のこの本質を希求するならば、大学の教授たちは、世界の絶えざる不確定性という危険に立ち向かう最前線へ実際に進軍して行かねばならない。教授たちがその最前線を固守するとき、そこから――あらゆる事物の攻撃に身をもって立ち向かうところから――共通の問いと共同体を志向する発言がしぼり出されてきて、教授たちも逞しい指導者になる。というのも、指導するに当たって決定的なことは、単に先頭に立つことではなく、ただ一人で進んで行くことができる力だからである。それは強情さや支配欲からのものではなく、もっとも深いところで決定を下し、もっとも広範な形の義務を果たすためである。こうした力が本質的なものに結びついて、最上の者を選び出し、新しい勇気に満ちた者たちの真の服従心を目覚めさせるのである。しかし我々はこうした服従心を目覚めさせることは今はもう必要としない。ドイツの学生たちがすでに進軍を始めているからである。彼らが求めているもの、それは、彼ら自身の決定を確固たる学に基づく真理に高めてくれる指導者、彼らの決断をドイツ的に働く言葉と行為の明晰さに引き入れてくれる指導者である。
 極度の困窮に陥っているドイツの運命に立ち向かおうとするドイツの学生のこの決断から、大学の本質へ迫ろうとする意志が生まれて来る。この意志は、ドイツの学生が学生の新しい権利を通じて自らの本質的規範のもとに立ち、そうすることによってまず何よりもこの本質に明確な輪郭を与えるというかぎりで、真の意志である。自らに規範を与えることが、最高の自由である。さまざまに賛美されている〈大学の自由〉というものは、大学から放逐されねばならない。というのも、こうした自由は、否定的なものでしかないゆえに、真なるものではないからである。それは、主として無関心さ、意図や嗜好における任意性、行為における放縦さを意味していた。だが、ドイツの学生の自由という概念は、今や、本源の真理に連れ戻される。そこから、将来、ドイツの学生の義務と奉仕が展開される

 義務

 第一の義務は、民族共同体に対するものである。民族共同体は、民族のすべての階級と成員の努力、志望、能力に関与し、これを共に担い、共に行動することを義務づけるものであって、この義務がこれから先も果たされ、学生の現存在に根を下ろすのは、労働奉仕によってである。
 第二の義務は、諸民族のただ中にあるこの国家の栄誉と運命に対するものである。国家は、知と能力で固められ、規律によって引き締められた出撃体勢、最後の一兵までの出動を要求する。この義務が将来学生の現存在全体を包み込み、これに浸透するのは、兵役によってである。
 学生の第三の義務は、ドイツ民族の精神的負託に対するものである。ドイツ民族は、自らの運命に働きかけて、人間の現存在がもつ世界を構成する力を圧倒的に見せつけながら、自らの歴史を作り上げ、自らの精神的世界を常に新たに戦い取っている。たとえ自己の現存在が極度に疑わしいものであろうとも、ドイツ民族は、精神的な民族たらんと欲しており、自らにおいて、そして自らのために、もっとも高く、もっとも広く、もっとも豊かな知のもっとも厳しい明晰さを民族の指導者たち、民族の番人たちに求めている。いまだ若くして大胆に成人の世界に乗り込んで行き、その意欲の翼を国家の将来の運命に向かって広げている学生諸君は、根底からこうした知への奉仕を自らに課さねばならない。学生諸君にとって、この知的奉仕は、〈高級な〉職業に就くための変わりばえのしない速成の訓練であってはならない。政治家と教師、医師と裁判官、司祭と建築家は、民族的=国家的な現存在を指導し、それを人間の存在がもつ世界を構成する力との基本的関係において監視し、厳しく保持しなければならないがゆえに、こうした職業とそのための教育が、この知的奉仕に委ねられているのである。知は、職業に役立てるものではなく、逆に職業の方が、民族の現存在全体のために、民族の最高の本質的な知を手に入れ、それを管理しているのである。しかしこうした知は、我々にとって、本質や価値それ自体をのんびりと閲覧することではない。そうではなく、存在するものが跋扈するただ中で、現存在をこの上なく厳しく危険に晒すことなのである。存在一般が疑わしいからこそ、民族は労働と闘争に向かわねばならず、民族の国家に統合されねばならない。こうした職業はこの国家に帰属しているからである。
 この三つの義務は――民族を通じて精神的負託を受けた国家の運命に対するものであって――ドイツの本質にとって、等しく根源的なものであり、根源から発するこの三つの奉仕――労働奉仕、兵役、知的奉仕――は、等しく必須のものであり、同等のランクのものである

 教師の本質的な意志が目覚め、強くなると、それは、学生の本質に対する知のもつ単純さとそのありように向かって行かざるをえないのに対し、学生の本質的な意志は、知の最高の明晰さと規律に向かって行き、民族とその国家についての知識を、学生の本質の中に組み込んで行くことを断固として要求するようになる。そのため、両者の意志は、必然的に互いに衝突することになる。あらゆる意志的な思考力、あらゆる心情の力、あらゆる肉体の能力は、闘争によって発展し、闘争の中で高められ、闘争として保持されねばならない。
 我々は問いを発する者の知の闘争を選び、カール・フォン・クラウゼヴィッツとともに、こう公言する、〈私は、偶然の手によって救われるなどという軽薄な希望とは縁を切る〉と

 教師と学生の闘争共同体は、教師と学生が他のすべての民族同胞よりもより簡明に、より厳粛に、より謙虚に、その現存在を打ち立てるときにのみ、ドイツの大学を精神的立法の場に改造し、大学の中に民族の国家に対して最高の奉仕をするこの上なく引き締まった集合の中心を作り出すこととなる。すべての指導者は、服従する者に独自の力を認めてやらねばならない。しかし、服従それ自身の中には、常に反発が含まれている。指導と服従のこうした本質的な敵対関係は、拭い取ってはならないし、ましてや無理矢理に消し去ってはならないものである。
 ただ闘争のみが、この対立を確保し、教師と学生の集団全体の中に、明確な自己主張をして真の政治のための決然たる自己省察たらしめる基本的な雰囲気を植えつけるのである

 我々はドイツの大学の本質を望んでいるのか、それとも望んでいないのか

 我々のもとで問題になっているのは、我々が自己省察と自己主張を得ようとして好い加減にではなく根底から努力しているのかどうか、努力しているとして、それはどの程度にか、あるいは、――善意から出たものにせよ――ただ古い制度だけを変えて、新しい制度をこれに付け加えているかどうかである。誰一人として我々のこうした行為を阻むものはいない。
 しかし、西欧の精神的な力が失われ、西欧の箍が緩んでしまっているときに、そして老衰した偽りの文化が内部から崩れ落ち、すべての力を混乱に陥し入れ、狂気の中で窒息させようとしているときに、我々がなおもそれを望むのか、それとも望まないかと問いかける者は誰一人いない。
 こうした事態が起こるか、それとも起こらないか、それはひとえに、我々が歴史的=精神的民族としての我々自身をなおもう一度望むか、それとももはや望まないかどうかにかかっている。各々の個人は、この決断を回避するときでも、いやそのときにこそ、これに対して共に決断を下すことになる。
 しかし、我々は、我々の民族がその歴史的負託を果たすことを望んでいる。
 我々は、我々自身を望んでいる。というのも、すでに我々を超えて広がっている民族の若い力、もっとも若い力は、すでにこれを決断しているからである。
 しかしこの決起の栄光、そしてその偉大さは、ギリシャの叡知から発せられたあの深淵かつ広範な熟慮の言葉を我々の中に担って行くときに初めて、我々に十全に理解されるのである。
 〈偉大なるものはすべて、嵐の中に立つ[……](プラトン、ポリテイア、四九七d、九)